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秋田地方裁判所 昭和36年(わ)103号 判決 1962年7月10日

被告人 横山一行

昭一三・一〇・一八生 日雇

主文

被告人は無罪

理由

本件公訴事実は「被告人はいん唖者であるが、昭和三十六年四月二十二日午後五時過頃、由利郡象潟町洗釜字棚下七番地所在の杉植林地内において、所携の鉈をもつて斎藤彦一の頭部顔面頸部等をめつた打ちに切り付け、よつて同人を頭部頸部損傷出血により同所において死亡させ、殺害の目的を遂げたものである。」というにある。

然していん唖者である被告人が起訴状記載の日時、場所において鉈をもつて斎藤彦一の頭部、顔面、頸部等をめつた打ちに切りつけ死亡させた事実は横山一子の検察官に対する供述調書(二通)、横山八重子の検察官に対する供述調書、佐藤東三の検察官に対する供述調書、司法警察員今野正夫作成の検証調書、司法警察員川村新一郎作成の捜査報告書、鑑定人医師村上利作成の鑑定書の各記載並に押収に係る鉈(証第一号)、上衣(証第三号)、ズボン(証第四号)の各存在及び秋田県警察本部刑事部鑑識課警察技師佐藤和夫、同佐々木修蔵作成の試験成績書の記載を綜合してこれを認めるに十分である。

ところで我が刑法上いん唖者は限定責任能力者(刑法第四十条)とされているので被告人の右行為当時における責任能力の程度につき検討考察する。

当裁判所において取調べた全証拠を綜合勘案すれば以下述べる一、二項の各事実が認定できる。

一、被告人の生い立ち、生活経歴等。

被告人は本籍地において父専一、母八重子との間に長女一子(当二十五才)二女すみ子(当十九才)三女ふさ子(当十五才)二男繁(当十三才)の五人姉弟の長男として五体、五感共に満足に生れたのであつたが二、三才の頃悪性の中耳炎を患つたことがもとで聾唖の状態となり、その後家族の保護のもとで一応普通の子供並みに育てられ、学令に達してもいん唖者のため入学式に出ただけで通学せず、又その頃父が応召していたという家庭の事情もあつて聾唖学校えも行かないまゝ成長し、長じても部落の若者と交際することは稀れであり、十六才頃から家の田畠の手伝をはじめ、十七才の頃から少しづゝ家を出て山仕事のような単純な肉体労働に従事し、家族間の意思の疏通は顔を洗う、寝る、立つ、歩く、食べる等具体的動作による極めて幼稚な手真似、顔付き等の表現方法で日常を便じ、対外的には被告人の母や姉がその通訳の立場にあたつて来た。そして被告人の住居地が人里離れた山間の僻地という環境にあつたため社会の風に当ることも極く少く経験的にも社会から閉された状態で二十二年余を経過し今日に至つたのである。然し被告人は生来温和で親思い、姉妹思いの情がこまやかで、これまで一度だつて兇暴な振舞に及んだことがなく、部落でもそのおとなしい人となりは評判であつた。

二、犯行の動機等。

被告人の父専一は昭和三十六年二月頃から心因性精神病に罹患し、四月頃からは兇暴性を帯びて来たので、家族のものが叔父(被告人の母の妹の夫)の彦一等と相談して入院させることとなり、四月十八日彦一はいやがる専一を無理に背負い、自動車に乗せて自宅から本荘組合病院に入院させた、被告人はその様子を物置のかげから見ていたのである。又父の病状と並行するように入院の四日前頃から被告人自らも山仕事を休み勝ちとなり、頭痛を訴えたり、夜遅くまで山をさまようような不安定な行動をあらわしていた。

然し父の入院治療については、被告人自らも聴診器をあてる身振りをして父に医者にかゝることをしきりと勧めていた程であり、入院に際しては母や姉一子が手まね、身振りでそのことを説明し、被告人もよくこれを納得していたことは十分に窺われる。

それでも父が入院した後被告人は仕事も手につかない様子で十九日朝は弁当も持たず外出し、午后四時頃何処からともなく戻つて来たりしている。これは恐らく父入院の際自宅に出入りした見知らぬ病院の係員達のたゞならぬ動きに少なからず衝撃を受け、父がおらなくなつた淋しさも加わり、人知れず思い悩んだためではなかろうかと考えられる。

この様子に同情した彦一は大勢の若者達と一緒に山仕事でもさせれば気分も紛れるであろうと考え、被告人を約三粁離れた自宅に暫らく引取り面倒を見ることにした。

被告人はこれまで外泊することはなかつたことであるが、母や姉の説明にも納得した様子で、翌二十日朝彦一や姉一子に伴われた被告人は洗釜部落の彦一宅に赴き、朝食をすませた後皆と共に象潟町大森山所在の通称「斎藤宇一郎造林地」の植林作業に従事し、夕方五時頃帰宅した。その朝山に出掛ける際、被告人は姉に寝巻きを持つて来てくれとことづけており、夕方姉が寝巻を持参したとき丁度山から戻つて庭先きで足を洗つていた被告人は、にこにこして姉を迎えた程であるから、被告人が彦一方に寝泊りし、山仕事に従事することを理解できず、彦一に対し内心不快の念慮を抱いていたとは考えられないし、又被告人の思い悩みも一時的なもので、それが被告人の心裡に強く尾を引いていたとも考えられない。

夕食後被告人は一子と一緒に床屋に行き、一子もその晩は被告人の身を案じて彦一方に泊つたが翌二十一日朝六時頃起きて食事をすませ、八時頃前日同様皆と山仕事に出掛けた被告人がその際一子にいつも山に着てゆく上衣を届けるようことづけたので、日頃の状態に戻つた被告人の様子に安堵した一子はひと先づ自宅に戻つた。

翌二十二日に本件の兇行が行われたのであるが、被告人は前日夕方山から一人で戻つて来るなり頭痛を訴え、しきりと自宅に帰ることを望む態度を示したので、偶々農業委員会の会合に出席して不在であつた彦一にかわり妻ハルや子供達がなだめて漸く午后八時頃被告人も勧められたケロリンを飲み納得した様子で床に就いた。翌朝は少し遅くまで寝ていた被告人も午前七時半頃一子に起され、食事をすませた後迎えに来た伊藤武と一緒に山に出掛けるまでは別段頭痛を訴える風もなかつたが、途中で頭を抱え込み、木株に腰をおろし、池田トシ子に頭痛を訴えたりしており又いつも昼寝をするのにその日は横になつただけで落着かない風をしていた。それでも仕事の終つた午后四時半頃までは今までと変りなく働いていたのである。その日は仕事が終つてから人夫達一同に上浜駅前梶原金四郎方において祝酒が出ることになつていたので、仕事が終つて池田トシ子が被告人に対し酒を飲む真似をして一緒に山を降りるように誘つたところ、被告人は一旦は帰り仕度をしたが何を思つたか肩からさげた弁当箱入りのカバンをおろし、傍にいた彦一に対し下山とは反対の山の方を指して一緒に行こうと誘い、二人は仲間からはずれて山の奥に登つてゆき、造林地から約千七百米離れた山奥で彦一は本件の被害に遇い不帰の客となつたのである。

兇行後の被告人の足どりも詳かでないが、翌二十三日午后七時三十分頃山狩りをした消防団員に伴われて自宅に戻つた被告人は非常に疲れた様子で頭痛を訴え囲炉裡の傍に横になつた。

以上が被告人の犯行前後における行動並にその周囲に生起した事情のあらましであるが、この状況から推して被告人が何故に彦一を殺害したのか、その動機というものは皆目判断がつかない。ただ明言できることは兇行の前夜からその翌日まで被告人は頭痛に悩まされていたことであり、犯行が極めて突発的であつたということである。

又彦一は円満な人柄で村民の信望も厚く農業委員、民生委員などを勤め、決して人の怨みを買う人物ではなく、家族のものも被告人を引取つてからは誤解を招いたり刺戟することがないよう細心の注意を払つて被告人を待遇していたのである。

三、知能程度

当審鑑定並に鑑定証人細越正一の供述を綜合すれば、被告人には狭義の精神病的症状は存在しない。適切に保護された環境において聾教育、並に作業(職業)教育を施せば精神能力、社会順応能力を向上させるに十分な可能性を持合せていることは明かであるが、社会的には孤立の環境に育ち単純な人間関係の中で単調な生活様式に従い未教育のまゝ平穏な日を過ごして来たことは被告人の精神発育を明かに阻害し、頭痛も耳だれが関係しているのではないかと思われるが子供の欲求不満によるノイローゼに類似した現象と推定され、言語における表現能力は二、三才程度に過ぎず知能程度は総じて満六才に満たない白痴級の精神薄弱状態にあることが認められる。

四  結論

以上の事実を綜合して被告人の行為当時における責任能力の程度を判断すると被告人は人間として正常な成長を遂げるに必要な言語、手段を欠き、而も閉された社会環境の中にあつて社会生活上最も低い日常生活、慣習的生活事実に対しては或る程度選択、意欲する能力を保有することは認められるが、それ以上の精神的発育は阻害され、従つてその意識においては社会生活関係における事理を認識することができない状態、その程度の能力しか持合せていなかつたと判断するのが相当である。

然らば被告人の本件行為は理非善悪を弁識する能力を欠いたいん唖者の行為というべきであるから刑法第四十条前段に該当し、右行為は罪とならず刑事訴訟法第三百三十六条により主文において無罪の言渡をする。

(裁判官 三浦克已 杉島広利 根本隆)

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